Loving daddy forever

「Loving daddy forever」
僕には父のほかに、愛するパパがいる。
というか、いた。パパの名は「岡田伸夫」。
世界的に有名な、誰もが知っているヴィオラ奏者・ヴィオラ教師だ。
その愛するパパが2019年12月30日に永眠した。
パパは大学の先輩、でも演奏する楽器も違った。
・・・パパとの出会いはいつのことだろう
多分、出逢ったのは1991年?ぼくが、サイトウキネンオーケストラに参加した年、、、松本のホールですれ違ったとき、いや、もしかしたら、桐朋学園の学生ホールですれ違ったとき。
勿論、会話することもなくボクは、あっ、世界の巨匠、岡田伸夫先生だ凄いオーラだなと感じたくらい。それから、何度か楽屋や廊下ですれ違うことは多々あった。
運命とは不思議なもので、ある日、仕事でご一緒することがあり、ボクはなぜかパパに臆することもなく、知り合いでもないのに話しかけた、、、いや、パパから話しかけられたのかも?アヤフヤだな。
そんなことはさておき、その後、運命深いものがあり、一緒に演奏するご縁がたくさんあった。
たいてい音楽家というのは、休憩の時間、ゴハンの時間は同じ楽器の人、同属楽器の人と過ごすことが多い・・・なのに!パパは不思議と「ふくしま、ごはん行くぞ」といつも、声をかけてくれた。
何だかよくわからんけど?
それが、とてつもなく嬉しくいつもくっついて歩いていた。好きな服も似ていたのもあるかも。。。その時って、色々な話を聞かせてくれた。時代は違えども、同じベルリンフィルで勉強したのもあり「カラヤンはきらいだ」とか「鰻はしっぽの方が美味しいんだ」とかわりとどうでもいい話(笑)
でもこんな、名言も
「人間は明日死んでもおかしくない、だから、目の前の事、今できることを必死でやるんだよ」
これ、響いたな・・・ボクが30代の時に頂いた言葉かな。。。
パパとの思い出はホントいっぱい・・・ある日電話したら
パパ:「あのさ、階段から落ちて身体が動かなくなっちゃたんだよ」
ボク:「大丈夫?どこにいるの?」
パパ:「〇〇病院のベッド、でさ、悪いんだけど、タラコのおにぎりと、シンプルな醤油ラーメン買ってきてよ」
あのときは、なんなんだろ、この気取らない悟りの境地って思ったな。そして、病室にかけつけたら、「ふくしま、あのさ、ひげを剃ってくれる?」とか超余裕。
話は飛んで、今年の9月29日?30日あたりに久しぶりに電話したら・・・「おまえ感がいいな、オレ、今日、検査の結果出るんだよ、、、悪性だったら治療はしない。電話もでないからな、じゃあ」って。
どうしていいかわからない状態で電話が終わってしまって、その後、連絡はなかった。
そして、色々あり最近、二回お見舞いに行ったらパパは逝ってしまった。
最後12月23日に逢ったのが最後。
その時パパは、あの”ガリガリ君”が食べたいといったので、ボクは、「不安で怖い」というパパの手をずっと握ったり、食べさせてあげた、そしたら、もう一本食べたいといって二本食べさせてあげた・・・きっとお薬でのどが渇いていたんだろうな。嬉しそうだったな。
そして、ボクは仕事に行かなくちゃいけなかったので「先生、パパ帰るね、仕事に行ってくるねと」伝えた。パパは寝たきり小さな声、で「またな」と言い、寂しそうな顔でボクをみつめた。
このお正月に、まさか、そんな別れ方ってある?と思ったけど、仕方ないね。
ボクが去年、嬉しかったことは、ジャズを始めて苦節五年でようやく、青山のMANDALAで演奏できることになったことだ。それは勿論、大切なパパに一番に伝えた。
「2020年2月11日パパ、やっと青山決まったよ、やるよ」
くしくもこんなことって、あるだろうか?その日がパパのお別れの会になってしまった。一年前に亡くなったパパの最愛の奥さんのお別れの会と同じ2月11日、同じ場所で。
ボクはお別れの会に行けない。なんで実の父のように慕っていたパパとお別れもできないんだろうか?
でも、パパが言ったように「人間は明日死んでもおかしくない、だから、目の前の事、今できることを必死でやるんだよ」しかないんだね。
だから、ボクは演奏する、とてつもなく悲しいし寂しいけど・・・
Show must go on
最後にパパともし、話せるのならば
”Loving daddy forever”
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「
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