田宮堅二先生との思い出

プロフィール

田宮堅二先生

桐朋学園大学音楽学部を卒業後、ドイツ政府給費留学生(DAAD)として、ベルリン音楽大学に入学。在学中は、ベルリン・フィルの首席トランペット奏者フリッツ・ヴェゼニック教授に師事。

同大学を卒業後、ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団に入団。
その間、アメリカ合衆国、西ドイツ各地の音楽祭にソリストとして出演。

日本でも東京都交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団などに出演し、数々の協奏曲を共演。

1981年にベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団を退団し、本拠を日本に移す。1994年マルタ・アルゲリッチをソリストとした《ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲》のソロ・トランペットを担当し、好評を得る。

ソリストとしての演奏活動に加え『田宮 堅二ブラス・アンサンブル』を主宰するほか、日欧米の10人の名手を集めた『10人のミラクル・トランペッター~Ten of the Best』のメンバーとして国内外での演奏会およびCD録音で活躍している。現在、桐朋学園大学音楽学部管楽器主任教授として後進の指導に当たると共に、ドイツ・ブレーメンのトランペット・アカデミーの客員講師、および東京学芸大学の非常勤講師を務める。

異端児、田宮先生と出会う

私は田宮先生と出会う事がなかったら、トランペット奏者として存在しなかっただろう。

私が田宮先生とお会いしたのは、桐朋学園の実技試験後、面接の時が初めてであり、これは通常で考えたらありえない話だ。というのも普通、音楽大学の入試というのは、試験の前に教授にコンタクトをとって、数回レッスンを受けてから受験するもの。ところが、当時20歳の私はそんな当たり前の常識も知らず、願書だけ提出し入学試験に臨んだのである。

若気の至りであり、今思い出すと”汗顔の至り”まさに世間知らずの”異端児”だ。

試験ではアルトゥニャンのコンチェルト(協奏曲)を演奏。まず当日は、試験官が20人もいて想定していたより多く驚く。
コンチェルトの出だしは好調だったが、途中で伴奏が1拍食ってしまい悲しい結末に・・・

オケスタ(※オーケストラスタディーの略=オーケストラの有名で難しい旋律を集めた物)は、「レオノーレ、カルメン、イタリア奇想曲、ラベルのG-Dur、バルジファル」全部吹かされ、そして面談。

そしてこのとき初めて田宮先生とお話をした。
どんな質問で何を答えたかは全く憶えていないが、「雑誌で見たことのあるおじさんだ!」という印象だけが妙に心に残った。

その日は実技試験の出来に意気消沈し、所詮縁がなかったのだなと思い帰宅。ところが一週間後、自宅に届いたのはなんと合格通知だった。

レッスン開始

入学して驚いたことは4つ。
先ず、《1》「金管楽器の部屋があること」《2》「個人レッスンの他にグループレッスンがあること」《3》「教材が違うこと」《4》「人より高い音を出し、速く大きい音で吹ければ良いのではないこと」

そして、何よりもまず、正しい奏法で良い音を出す事が求められるのだ。

その当時の僕は、特に苦もなく吹けてしまったので、先生の仰っている意味が理解出来なかった。

また外部から来た僕は、中々クラスに馴染めず、オーケストラのリハーサル、アンサンブルのリハーサルをすっぼかす事もたびたび。

まあ、要はチャラチャラと吹いていたわけです。

落涙滂沱

そして夏も過ぎ、ハンブルグ音楽大学のカーレンゼ教授が、マスタークラスのため2週間訪日された。

僕もレッスンの為に、一通り宿題を練習してカーレンゼ教授の前で吹く。
しかし、音符は並んで吹けているのに「ダイナミクスが楽譜通りじゃない」とかいわれ何故かいつも怒られる・・・。

だんだん、カーレンゼ教授が苦手になり、最後の頃にはレッスンが憂鬱で憂鬱で仕方なかった。

最終日に田宮先生の通訳でカーレンゼ教授との面談があった。
カーレンゼ教授は鬼の形相で目を真っ赤にし、田宮先生も今までに見た事のない険しい表情。

「お前は才能があるのにどうして練習しない!」
教授と先生の真心からの説教と、その真剣な表情から私も目頭が熱くなり落涙滂沱。

その日から、私のラッパと音楽に対する姿勢は変わり、本格的に腰をすえて勉強することを決意した。それまでは実家から通っていたが、大学近くの仙川に引越し、全身全霊で練習に励むようになった。

自問自答の日々

しかし、それから始まったレッスンは、来る日も来る日も5分で終わった。
音を一発吹くと、田宮先生に「違う」と言われそれでおしまいである。

グループレッスンでも毎回、ケチョンケチョンに駄目だしされ、先生にはろくに口もきいて頂けず、辛い半年だった。

悔しくて悔しくて、来る日も来る日も朝5時から夜10時まで、とにかく”正しい奏法で良い音を出す”練習に徹した。最初は全く音が出なくなって「プッサ~・・プス、プス」の繰り返し。情けなくてショックで発狂寸前。「お前は何をする為にここに来たんだ?」と、何度自分に問いかけたことか・・・

だが先生に言われた事を忠実に練習し続けることによって、半年もすると少しずつ変化がみられた。そして一年たつとダイブ吹けるようになり、翌年の3月にはソコソコ吹けるようになっていた。

転機訪れる

そして二年目の最後に“ベルリンフィル付属のカラヤンアカデミー”のメンバーとの演奏旅行があり、僕は何とそのメンバーに抜擢されたのである。

アカデミーからはトランペットの学生がニ人来た。そのほかに、ホルン、ボザウネ(トロンボーン)、チューバ、木管、弦楽器が数名。

世界最高峰の学生達とのアンサンブル、オ-ケストラで一週間ほど演奏旅行をしたのだがその刺激はカルチャーショックであり、忘れられない経験になった。

田宮先生の与えて下さったそのチャンスは、私を確実に成長させ、その3ヵ月後に私はシュトラウスの「英雄の生涯」を演奏出来るまでになっていた。

地獄の夏休みとサイトウキネンオーケストラ

夏休み、家にはエアコンが無いため、朝から学校が閉まるまで、毎日エアコンのある教室で練習して過ごしていた。

クラスのみんなは海外の講習会に行ってしまい、貧乏な僕は、一人で地下の教室にもぐって、毎日8時間の練習だ。他の楽器の学生も帰省してしまい、誰とも口を交わすことがない数日間。
更に、この頃はかつての人生の中で一番経済的に逼迫していた。とにかく食べ物が無かったのだ。
田宮先生にはお中元のお裾分けを頂いたり、食事につれていってもらったり、本当に良くして頂いたがそれでも足りない。

ある日ついに食料は、”生のジャガイモ一個”だけになった。

ガスも止められていたので、ギャラが入るまでの三日間、”生のジャガイモ”を食べて・・・というより齧って、水を飲んで飢えをしのぐ。戦時中でもないのに・・・・今でこそ笑い話だ。

そんな生活をして8月も終わる頃、田宮先生から突然電話があり、サイトウキネンオーケストラの仕事を任されたのである。

貧しく惨めな22歳の夏休みだったが、一夏努力して耐えた甲斐があったと心から思った。

死ぬほど嬉しかった。

サイトウキネンオ-ケストラ金管セクション
サイトウキネンオ-ケストラ金管セクション
H・トマジ作曲 典礼的ファンファーレ
1993年9月 長野県松本市

先生ご満悦

その年の10月、サントリーホール開館10周年コンサートで某オーケストラがシュトラウスの「祝典序曲」をやることになった。

そこで某フィルに就職したHさんが、バンダ(ステージ外で演奏するラッパ隊)6人のパートを田宮門下で演奏するという、粋なはからいをしてくださったのである。

田宮先生、某フィルのHさん、現)某響のHさん、大先輩のMさん、Yさん、そして末席に福島というメンバー。

普通の仕事では色々なルールがあり、吹き過ぎないように遠慮がちだが、今回はドイツから一時帰国しているHさん、Mさんもいらっしゃるので普段田宮先生から教えられている通りに”内臓が飛び出る位いギンギン”に大音量で吹いたつもりだった。

しかし、一時帰国の本場仕込のお二方の音量は凄まじく「あ~これが先生が普段、仰っていることなんだ・・・」と納得。

先生も久しぶりの弟子達との演奏に、終始笑顔でご満悦のようでした。

そして、終わってからの全日空ホテルでの食事会。

僕以外はみなさんガッチリ(ふくよか?デブ?)していてラッパ吹きの体型だけど、普段の食事にも困っている貧乏学生の僕だけはガリガリ。

バイキングだった為、諸先輩方がありがたい事にドンドンお皿に料理を盛ってくる。最年少の私は先輩方のターゲットに・・・・

あまりに苦しくて中座し、化粧室から戻ってくると私の前にはまた”てんこ盛り”の料理が。(このエンドレス)

兄弟子達からの冷や汗の出る辛い”食のレッスン”を受けました。
そしてこの先輩達からの”食のレッスン”にも、田宮先生は超ご満悦でした。

水戸室内管弦楽団

1994年正月年明け、学校で練習していると、大先輩のMさんとYさんがやって来て
「おっ、いたいた、ほな、行こっか~」と言って訳のわからぬまま茨城まで拉致された。

実は、田宮先生がインフルエンザを煩い、水戸室内管弦楽団のニューイヤーコンサートに出演出来なくなり、急遽代役として抜擢されたという次第である。

もうだいぶ仕事慣れしてきていたので、大して驚かなかったが、流石にブリテンの「ファンファーレ」の演出には少し緊張した。

このファンファーレは、3人のトランペット奏者がステージの真ん中に一人、客席の左右に一人づつに別れ、それぞれ違う場所でそれぞれキャラクターの違うファンファーレを一人ずつ順番に演奏する。
そして3人が一斉に数拍遅れで吹き始め、最後の二小節で合うといった中々面白い作品である。

いよいよ本番、ステージ上から最初のファンファーレが始まった。
私は二番目の出番だったので、客席で直立不動で緊張して出番を待っていたら、客席のオバちゃんがプログラムに載っている僕のプロフィールを見て永遠に話しかけてくる。

オバチャン
「あなた、桐朋なの?」
(笑顔で無言、そろそろ出番・・・話しかけないで)
オバチャン
「遠いところ良く来たわね~あなた22歳!若いのね~!!」
(笑顔で無言、出番まであと三小節・・・お願いやめて)
オバチャン
「ウチの娘も桐朋なのよ」
(笑顔で無言、よし、来た~・・)

オバチャンのおかげでリラックスさせて頂いた?緊張感がなかった?
田宮先生の代わりとしては力不足だが、イイ演奏は出来てお客様には喜んで頂けたと思う。

とにかく、新たな貴重な経験?により自信をつけ、3月の学校オケで故)巨匠フルネ氏の指揮でも臆すことなく、シュトラウスのオペラ「バラの騎士」のソロもイイ演奏ができました。

師弟の関係を超えて

丁度この頃から、レッスンの内容が変わってきた。技術や音楽だけではなく、先生の経験談が多くなり、特に印象に残っているの話が二つある。

一つは・・・先生がベルリンフィルに「展覧会の絵」でヴェゼニック教授のアシ(アシスタント)で出演された時のこと。

終曲の「キエフの大門」でヴェゼニック教授がバテてヤバクなったとき、田宮先生は吹く場所ではなかったが、ヴェゼニック教授のピンチを察知し、すかさずffでギンギンにサポートしたそうだ。

無事コンサートは終わり、田宮先生とヴェゼニック教授が師弟関係から同僚に変わった、忘れられない一夜になったと仰っていた。

もう一つは・・・田宮先生がベルリンドイツオーパーを退団し帰国して半年ぶりくらいにベルリンへ行った帰りに、かつての職場ベルリン・ドイツオペラの楽屋に立ち寄ったところ、丁度オケはオペラ「マイスタージンガー」の3幕前の休憩中。

かつての同僚と昔話に花を咲かせ、第3幕開演が近づき帰ろうとすると、同僚に 「3番トランペットの席はケンジの席だ、吹いていけよ」と言われ、衣装も楽器もなかったが、同僚達にオケピ(オーケストラピット)に押し込まれ、席においてある同僚の楽器で飛び入りで吹かされたそうだ。

先生のそんな思い出話に心が温かくなり、先生は未熟な僕のことも、仲間としてみてくれるようになってきたのかなと思った。

最後の年

この年の学校オーケストラは、シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲル」から始まり、夏休み一ヶ月間は仕事でチャイコフスキーのバレエ漬け。

夏休み明けの9月は長野県で、小澤オケでチャイコフスキーの4番をやった。
特に冒頭、勇壮なファンファーレがホルンから始まり、ラッパに引継ぎ吹く瞬間の緊張感と集中力は今でも忘れられない。

トランペットの出番、一小節前になると、小澤先生はジッと私の目を見据え、右腕で指揮棒を振りながら”スッと”左手の人差し指で突き刺すように私を指差しながら合図を出す。普段は指揮者なんてほとんど見ない私も目をそらさず吹く。
小澤先生は本気で向かってくる、青二才の僕も本気だ、何とも言えない音楽と音楽のぶつかりあいだ。

また12月は故)ジャン・フルネ氏の指揮で「展覧会の絵」を演奏した。
静寂のコンサートホールの中、2000人の聴衆とオケ80人からの”プレッシャー”は心地よい緊張感となり、たった一人で吹き始める冒頭のプロムナードは最高に
『気持ちイイ!』

ゾクゾクしながら楽しんで演奏ができ、その終演後、巨匠フルネ氏から賛辞を頂いたときは嬉しかった。

異端児と呼ばれた僕だったが、田宮先生の”人を育てる心"によりここまで成長したのだ。

卒業記念に先生は”オーケストラ界の神とも呼ばれる元シカゴ交響楽団主席者
"A・ハーセス氏”から頂いた貴重なプロテクター(楽器がさびないように楽器に巻く皮)をプレゼントして下さった。(私の宝物!)

そして先生との大切な4年間のおかげで、異端児は海外武者修行に行く決断をした。

田宮先生、ありがとうございました。

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